疋田智くんのこと

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先週、TBSで打ち合わせをした帰り道、赤坂の駅で疋田智くんに遭遇した。

話は長くなるけれど、彼との20年の歴史を語らないわけにはいかない。なにせ、20年の歴史のなかで、この日がまったくの初対面だったのだから。


20歳そこそこの頃である。当時、ぼくは同郷の同級生と付き合っていた。ぼくは南高校、彼女は西高校の出身。その彼女が「東大に行っている友達が面白い本を出したんだ」と言って紹介してくれたのが「中央線の秋」という小冊子だった。

「中央線の秋」は、もともと「漫画ビラ」であった。当時「原○研」が配っていた「勧誘ビラ」を模してつくられていて、「宗教への勧誘」という「意味」に対抗した「なんの意味も持たないビラ」だった。小冊子は、そのビラを大学祭用にまとめたものであった。とにかくその意味のなさと、意味がないのに、人の心に強いインパクトを残すというその発想の自由さに強い衝撃を受け、著者である疋田智という人物に畏敬の念を抱いたのだった。

結局、学生時代は、疋田くんと直接会う機会に恵まれないまま、彼はTBSの社員となり、ぼくは地方公務員となった。それでも、ぼくのなかで「中央線の秋」の精神は行き続けていた。

27歳の頃、「椎名誠がガリバン刷で個人雑誌をつくっていた」という話に触発され、まだ「ほぼ日」がなかった時代に「ほぼ月刊誌」というコンセプトの雑誌を作った。雑誌名は「10号線の秋」とした。「中央線の秋」に敬意を表しつつ、宮崎を縦断している国道10号線にちなんだものだ。1−2ヶ月に1回の割合で、20〜50部ほど制作して、友人たちにムリクリ送り付けていた。

その後、ほぼ月刊「10号線の秋」は、名前を「海森堂」と変えて週刊のメルマガとなり、やがてデイリーに更新を行う個人サイトへと変遷していった。

サイト版の「海森堂」は、開設9年目を迎えた。こんな弱小サイトではあるけれど、師匠をはじめとして色んな年代・職種・価値観の人と知り合うことができた。恋人のように心を通じ合わせる友人もできた。また、遠くアメリカにも友人ができて、その友人を頼ってアメリカの危機管理体制の勉強に行ったりもした。さらに、そのレポートを知り合いのドクターに見せたら、激しく感激してくれてそのままドクターヘリの搭乗医になっちゃったりもした。

小さなひとつの選択を変えると、人の人生は(あるいは歴史は)大きく変わってしまう。まさか、友人ドクターは、もとを辿っていくと「中央線の秋」にジンセイを変えられたのだとは思ってもいまい(笑)


その疋田くんに、赤坂の駅でバッタリ会ったのである。面識はないけれど、「著者近影」で顔は知っている。これは声をかけるしかないではないか。(つづく)

[memo]
・死ぬほどメールがたまっている(泣)。
・R社の件で、関係諸氏と話し合い、もう全部ぼくがやることにした。内部調整にこんなに手がかかるのであれば自分でやったが早い。すまんやらせてくれい。出張復命、イベント協議、コンペ仕様打ち合わせ、写真使用マニュアル、M社への提案企画など。22:00。

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