愛する友人から「子供が作文で『●●したよ』とか書くのは日本語としておかしくね?」という指摘を受けた。そういえば、まったく無自覚にケータツの作文を読んでいたけど、確かにどれもこれも「●●したよ」のオンパレード。変っちゃ変だ。
たとえば、先日の作文は「むじんとうにいったよ」というタイトル。これが大人なら、「無人島上陸記」や「無人島でのシュノーケリング」といったタイトルになるんであって、決して「無人島に行ったよ」とはならない。
これは「行った」という「動詞」がいけないのか?
世の中には「動詞で終わるタイトル」はないのか?
...と、背面の本棚を眺めてみる。あ。ないわ。ほとんど名詞、あるいは体言止めばっかりだ。でも、「動詞」で終わるタイトルがないわけじゃない。
ざっと拾ってみると
・豚を盗む/佐藤正午
・神の子どもたちはみな踊る/村上春樹
・飛ぶ夢をしばらく見ない/山田太一
・上司は思いつきでものを言う/橋本治
・悪役レスラーは笑う/森達也
・わたしの旅に何をする/宮田珠己
おお。なんだかタイトルを付けるのが上手な作家ばかりぢゃないか。ということは、「動詞」で終わるタイトルにするには、ちょっとした技巧が必要ってことか。確かにケータツの作文にしたって、「無人島に行った」ではタイトルっぽくないし、面白味もない。「真夏の無人島へ行った」だとか「ぼくらはみんなで無人島に行ったのだ」みたいな、なにがしかの装飾が欲しくなる。そういう余計なものをつけないのなら、いっそ「無人島訪問」の方が潔い。
...なるほど。わかった。
「上陸」や「訪問」という"難しい言葉"を知らない子供が、その幼さを強調しつつ、タイトルっぽくするための常套手段が「●●したよ」なんだな。ある種の「型」っつーことだ。俳句でいうところの「●●するなり」と一緒だ。おさまりがいいわけだ。なーるほどねえ...と一人勝手に納得。
納得?
...あ。
違う。
違う違う。
視点を間違えている。
「動詞」の問題も確かにあるけれど、それ以前に「過去形」がダメなんだ。「過去形」のタイトルがないのだ。上記の「動詞タイトル」がどこか技巧的で醒めた視線に感じたのは、「自分ごと」ではないからだ。主語も「自分ではない誰か」といった風情だ。
ちょっと真剣に本棚を眺めてみたけれど、たぶんぼくの蔵書には「●●した」というタイトルの本はない。
つまり結論はこうだ。
「●●した」という「過去形」でおわるタイトルは、タイトルとしてとてもおさまりが悪い。なぜなら「●●をした」的なタイトルは、極めて「自分ごと」であり普遍性をもちづらいからだ。読者の関心をひきにくい。
しかしながら、児童の作文というものは、実体験に基づいた「自分ごと」がほとんどであり、そもそもが「過去形」で語られるべきものである。語彙に乏しい児童は、言いたいことを名詞に置き換えることができない。
よって、その代替措置として、幼さも強調しつつ、素直に「自分ごと」を語ることができる「●●したよ」というタイトルが多用されることになった。
...えーっと。だからどうした?(自分でちゃぶ台ひっくり返し)
・午前は、たまったメールの山と連絡会議。午後から報告書の整理など。
・自分決算をしてみて吃驚。最近、浪費しすぎ。やばい。