宇宙にほっぽりだされて暮らすこと

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「爆笑問題のニッポンの教養」を見た。とても深く、印象的な内容だった。今回は、福島智教授(東京大学先端科学技術研究センター)が議論の相手だ。

福島教授は、「障害学」を研究している。そして、教授自身、8歳で全盲、18歳で全聾となった重度の障害者である。全盲聾。視力もない、聴力もない世界とは、どういうものか。先生は「宇宙にほっぽりだされているような」と形容する。完全なる闇と、完全なる無音に暮らすこと。

ぼくらは、他人の存在を主に「音」や「映像」で感じている。また、他人の気持ちを「声」や「仕草」で感じとる。そうやってコミュニケーションを取っている。しかし、福島教授は、残された「皮膚の感覚」でのみ、外の世界と繋がっていて、「指点字」というメディアでのみ、他人とコミュニケートできるのだ。なんという高い障壁だろうか。


今回、太田が(あえて?)とても素朴で無知な質問をする。スティービー・ワンダーやホーキング博士を例に取り「障害があるからこそ、残された部分の能力が高くなるのではないか」という問いだ。

もちろん、この2人は「天才」なのであって、一般論としては成立しないのだが、障害者たちが、「残された能力」を伸ばさざるを得ない環境に置かれているのは確かだ。目が見えなければ聴力を、耳が聞えなければ視力に頼らざるを得ない。そこで考えたいことは、障害者たちは、なぜ「残された能力」を伸ばさざるを得ないのか、ということだ。

それは何より日々を暮らすために「他人とコミュニケートする」ことが必要だからだ。多くの人が「聴力+視力」を主な手段としてコミュニケートしている社会では、一方の能力が欠けると、さまざまなコミュニケーション障壁が生まれてしまう。他人とコミュニケートするために、視力を失った人は「より多く聞く」ことでそれを補い、聴力を失った人は「より多く見る」ことで補うのだ。

つまり、究極のところは「生きる」=「繋がる」ことなんだな。他人と繋がり、社会と繋がっていくことが、「生きる」ことなんだろう。...そんなことを改めて強く感じた番組であった。必見。

それにしても、「宇宙にほっぽりだされて暮らす」ことは、とてもしんどいことだな。「生きる」ことに辛くなったら、そんなことをちょっと思い出してみよう。

(再放送)
6月15日(月)午後3:15~<総合>。
6月17日(水)午前2:30~(火曜深夜)<BS2>


自分メモ。新「iPhone」は、高性能化の方向。ううむ。もう少し小形化することを期待したのだが。早く切り替えたい気分もあるけど、もう1世代待つかなあ。

シンフォニエッタは、ジョージ・セル指揮(クリーヴランド管弦楽団)のものが、「1Q84」公認(?)らしい。ぼくが聴いているのは「ラファエル・クーベルック指揮(バイエルン放送交響楽団)のもの。小説には、小澤征爾指揮のバージョンも記載されているが、さて、どれがよかったのだろう...。

<memo>
・祭用のぼり、うちわ等のコンペ。M社向け企画書。総合P企画書。祭HPコンペ集計。L社向け企画書。K社へお礼。
・家人が手話教室のため、ハナの迎え。園長と就学について相談。遅くなったので夕食はレトルト(子供は喜んでいたり...)。

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このページは、kaishindouが2009年6月 9日 22:44に書いたブログ記事です。

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